反論には、相手の言うことを理解しなければいけない。
というか、
聞こうと思う→聞く→理解する→反論を考える→反論を言う
というプロセスがいる。
その全てをしてくれたならば、それは感謝をするべきだという持論がある。
議論の場は権力闘争、交渉、説得でしかないと思うのだが、そうなると反論には反論するのではなく、論点をすり替えまくった上で結局なんとなく向こうが悪くね?という雰囲気にするのが手法として正解なのかもしれない。
その上、敵とみなした相手の言いたいことをまず聞こうと思う人が少ないと私は感じている。体感としては30%である。
まあ手法として正解でもない上に、一旦自分の感情の高ぶってる中で、相手の言うことを聞こうと思うのは大変だろう。
そして聞こうと思ったところで、実際に口を途中で挟まず誘導尋問などせず聞くことができれ人は更に少なくなる。
そして偏見を捨てて相手の言いたいことを正確に理解できる人など、もう皆無に近い。
その上で、反論を用意できるような、優しくかつ優れた人がどれだけいるだろう。
反論を言って議論が噛み合ってしまえば議論は長引くことになると思うが、それを分かった上で反論を口にしてくれる人なんて、もう奇跡だ。
もはやここまでくると、愛だと思う。
あと、話は変わるが私はなんとなく向こうが悪いとするのが嫌いだ。遡及、人格否定のオンパレードになりがちだからである。
自分がされているわけではなくても、このようなことをしている人を見ると、あぁこの人と生活はできないだろうなと思ってしまう。
話は聞き流せるので人間関係は続けられるのだが
議論の噛み合う人でなければ付き合えないというのが、私が現在男性と付き合えず拗らせてる要因のうちの一つだと思う。