フレア

ざれごと

ジャニーズ

1998年、夜空ノムコウの発売されたときに生まれました。

2002年、世界に一つだけの花が発売され、幼稚園から小学生まで何回も歌い、ナンバーワンよりオンリーワンを目指すという価値観を義務教育期間色濃く受けて育ちました。

2006年、通読しているちゃおにKAT-TUNが掲載されました。初めてカッコいいという感情を持ったのは赤西仁です。また2023年現在に至るまで好きなサウンドKAT-TUNと自覚しています。

2008年、初めてハマったドラマは魔王でした。同時に初めて歌番組を繰り返し見たのは主題歌であったtruthでした。この年の年間1位を取りました。

翌シーズン、ドラマ流星の涙にハマりました。主題歌beatiful daysは音楽の教科書に掲載され、高校音楽の授業でアコースティックギターで演奏しました。

2009年、受験勉強の傍ら、本格的に嵐のファンとなりました。初めての好きな芸能人は櫻井翔です。年末は受験直前ながら、嵐初出演だったために初めて紅白を見ました。

中学の往復2時間の通学時間、高校のTVケータイ持ち込み不可の寮生活中、ずっと嵐を聴いて過ごしました。

2023年、勉強の傍らSixTONESのファンになりました。15時間×250日に及ぶ膨大な勉強時間をSixTONESの楽曲を聴きながら乗り越えました。

 

 

私の人生にはジャニーズの楽曲が流れていた。

なぜ私が彼らに惹かれるのかは分からない。分からないけれど、彼らの音楽は私に刺さるし、彼らのビジュアルは私に刺さるし、彼らの言葉も私に刺さる。不思議なものだ。

 

様々な音楽ジャンルを好きになっても、ファンになるのはジャニーズだし

様々なイケメンを見ても、落ちるのはジャニーズだし

本当に不思議なものだ。

 

好きになる、応援したくなる、ファンになる

これは、相当なエネルギーが必要なことで、なりたくてもなれないものなのだと、歳を重ねるごとに実感する。

好きにさせてくれて、好きでいさせてくれて、応援させてくれて、ありがとうジャニーズ。

彼らを集め、育て、管理してるジャニーズ事務所ありがとう。

 

この感情は、いわばUNIQLO好きと似たようなものだろう。

ウイグル強制労働で、そこで働いてる人にとっては地獄だけれど

消費者である私にとってはありがたい。

 

犠牲になった方、それはデビューできた方もできなかった方も含めて、大勢いらっしゃるんだろう。

でもその犠牲のおかげで私の人生は楽しかった。

 

非人道的かもしれないが、その点においては

ありがとう、ジャニーさん。ありがとう、ジャニーズ事務所

 

追記

あとね、ジャニーズの関わる楽曲もドラマや映画もバラエティも好きだったの。

すごく俗っぽくて、分かりやすくて、私は好き。

ジャニーズ出演作は全てジャニーズ事務所の監査が入るのだが、万人を置き去りにしないのを徹底してるのではないかと思われる。ぱっと見で、いいなと直感的に感じることを大事にしてる気がするのだ。

 

所謂玄人好みと言われる、知識のある層にとってはウケるが知識のないものにとっては価値も認識できないもの、というのを作品の根幹には置かないイメージ。(スタッフは超一流を使うから、実質は玄人好みなものも結構詰まってるが、ここでの話はあくまでメインの話)

 

高級といわれるフレンチに連れて行かれて、これは実はとても希少だとか、これはとても革新的な料理技術だとか、そんなん言われないと分からんし知らんわって思ったりもするが

ジャニーズ関連作品は、いわば寿司やステーキなイメージ。まずおいしい。皆大好き。

 

だから、ジャニーズでなくてもいいんだけど

ジャニーズみたいな、誰も置いていかない皆が楽しめるエンターテイメントに価値を見出す人や会社や組織に、権力が渡るといいなーと思ったりします。

OJTのくそくらえ

OJT on job training

実際に現場に出て、人のを見て真似て、何となく仕事を覚えていくというやり方のこと。

 

私はこれが大嫌いで、滅びればいいと心から思っているんだけど

上手に言葉にできない。

 

体系的に学ばないと、重要なことが抜け落ちる

だから、真似るだけじゃ何も学べない。

教える立場であれば言葉を用いて教えねばならないし、教わる立場であれば自分で成書で調べるか質問せねばならないと思う。

 

これを、少し数学のことと混ぜて言語化っぽいことしてみたから、下書きとして残しておく。

 

数学で問題を解くとき、多くの場合に「場合分け」をする。

あれは形式的なものとして自然としていたけれど、なんとなしに「解を求めよ」と言われたら普通の自堕落な日々に生きてる私達は簡単に思いつきやすいx>0しか考えない。場合分けなんて卑屈屋のすることだ。

ほとんどがx>0の世界で、普通に生きてればx>0だけ考えればよくて

なのに非常に稀有なx=0のときとx<0のときを記述せねばならない。し、肝心の点数配分はx>0の長々とした記述と同配分だったりする。

 

現場の大多数がx>0のときということは、つまりOJTで人のを見て真似るだけでは

この点数配分として1/3でしかない部分しか知りようがないわけだ。

 

仕事として、プロとして現場に立つならば1/3ではダメだろう。

でも、日々惰性に生きる私達は、目の前のタスクの処理速度を目標にしてしまう。

 

こういうことなのかなっていう。

 

走り書き

 

価値の負担

2人でごはんを食べるとして、サイゼリヤ1000円とフレンチ10000円を比較しよう。

A B共にサイゼリヤを十分においしいと思う人間なので、フレンチで追加される価値は雰囲気であり、それに9000円を支払っていることになるが

Aはその雰囲気というものに9000円の価値を見出しているが、Bは見出していない。

 

さぁ、

「AとBの支払い金額はどう分配するか?」

 

①10000円ずつ

価値を感じる感じていない関わらず、Bはフレンチを食べているのである。10,000円ずつ払えばよい。

 

②Aが19000円払う

Bが価値を見出せないものに付き合わせたのはAである。Bは外食ならなんでもよく、サイゼリヤ1000円で満足できた人。

つまり、Bの差額9000円分はAが負担するべきだ。

 

③Bが10000円〜20000円払う

Bにとってはそもそも2人で過ごすという行為自体にプライスレスな価値を感じている。1000円だろうが20000円だろうが些末な問題。

値段のみが論点なら、金なんて払ってしまえばいい。こだわりを持ってる側に合わせるのが現実的だ。

 

③'

Aがフレンチに行きたがる以上、Bもフレンチに価値を感じて行きたいと思えば問題は解決する。雰囲気に価値を感じずとも、味の勉強をしたらサイゼリヤより洗練された味を認識できるかもしれない。

 

この議論は2人の関係を継続させようとすると、様々な場面で立場を変えて出てくる問題である。

例えば、掃除は2の労力しかかけない人と10の労力かける綺麗好きの人が同居していて

8の差を誰が負担するか?

この場合、負担するものは金銭ではなく労力や時間であるが、概ね論点は同じだと思う。自分はAにもBにもなり得るのだ。

 

 

 

相手の愚痴

人付き合いする上で、相手の愚痴を聞けるか、はとても大事だと思う。

愚痴をスムーズに聞けるには、共感か理解か、どちらかが必須だ。

 

共感ができるならそれはよい。同じ感覚を持った者同士、話はスムーズに聞ける。

 

問題は共感できなかったとき、理解まではできるか、だ。

 

電車内でメイクする人が嫌いって愚痴られたとして
私は別に全く不快に思わないため共感はしないが

「人の見たくない部分を見ている気持ちになって、人がトイレしてんの見させられるのが不快なのと一緒だから無理」ときちんと分析して因数分解して言語化してくれると、

 

「あぁ、そうか。私は別に

メイク=見ちゃいけないもの

の感覚がないから相手と同じ不快感は抱かないが、その感覚があれば確かにその感情になるかもしれないなぁ。」

 

と理解できるのである。
ここまで来れば人付き合いは続けられる。

 

 

私は今まで自分の感覚は人とズレていることが多いだろうと思っているからこそ

相手は当たり前に違う感覚だろうし、言語化して伝えねば分かるわけがないと高をくくって生きてきた。

 

が、自分の感覚は他の人と変わらないと信じている人 or 本当に今まで似たような感覚の人とばかり過ごしてきた人などは、まず共感を得られない時点でなぜ相手が共感してくれないのかパニックに陥るパターンが多いと感じる。そして、その先の言語化をしない or できない人が一定数存在すると思う。

 

 

相手の愚痴を聞いて、この人と付き合い続けるか不安だなと感じたこと、皆さんはありますか?

努力ができないということ

私は小さい頃から、努力が苦手だった。

 

私は小中高と、特に努力しなくても欲しい物は手にしていた。

勉強も、運動も、優秀と言われる結果を残してきた。友達も、恋人もいた。親からも愛されていた。

でも私はべつに努力していない。人も物事も乱暴に扱い、それでもなお何も無くすことのない学生時代だった。

 

その全てが努力をせずに手にしていたものだからこそ、なぜ手にしているのか分からなかった。

 

だから、怖かった。ずっとずっと怖かった。

全てを失うことは、必然だと思っていたから。

 

当たり前だ、勉強しなかったら成績が落ちるのは。でもその当たり前が私は産まれてからずっと当たり前じゃなかった。

親にもキツく当たっていた。なぜ私のことを愛し続けているのか理解できなかった。

 

才能があるなら、まだ分かるんだ。本当に私が頭がいいとか、本当に私が性格いいとか、本当に私がめちゃくちゃ身体が特異体質とか。でもそうじゃないことを知っていた。自分など、偏差値30-80程度の普通と分類される人間であることを、ただの凡人であることを分かっていたから。なぜ今手にできているのか分からない、この刹那的な幸福が、憎いほど嫌だった。

 

私がいま持っているもの全てが私から失われ、それを努力によって取り返さなければいけないが、正しい努力の仕方も分からない その未来が容易に想像がついて、怖かった。

方向性さえ分からないのだ。

 

変わりたくない、変わらないでほしい、ずっとこのままがいい、卒業なんてしたくないと言い続けては、先生にピーターパンみたいだと笑われるような日々を過ごしていた。

 

 

医学部に入った。

医学は(学生時代は)暗記の世界であった。

成績は勉強時間に比例し、机について地道に勉強のできない私の成績は地に落ちた。

 

勉強できない私は、努力するしかなかった。

死ぬ気で、努力をするために努力した。

 

努力して努力をしたが、それでも人並みには努力することができなかった。

当たり前だ。幼稚園小学校の頃から努力し続けてる努力エリート達を前にして、18歳から努力を始めてみた人間が追いつけるはずがないのだ。

 

 

 

だから、教育に携わる全ての人間にお願いしたいことがある。

全ての子どもに、努力をさせてあげてほしい。

 

私は何でもできた。何でもできたから、先生からは放置され続けた。

宿題をしてこなくても、1週間形式上怒られるだけですぐに諦めてくれた。授業を聞かなくても、小テストが悪くても、成績がよければ何も言われなかった。

 

練習をサボっても、手を抜いても、試合結果がよければ何も言われなかった。

 

友達をどう認識してようが、実際に酷いことを言おうがしようが、私が困ってる様子が見受けなければ何も言われなかった

 

その結果できあがるのが私だ。

 

 

お願いだ、努力の仕方を学ぶのは小さいときの特権だ。

お願いだ、お願いだから、努力させてあげてほしい。

 

どんなに学業成績がよくても、試合結果がよくても

効率的な勉強や練習を褒めるのではなく、まだやれるのにやらなかった事実を叱ってほしい。

 

 

私には夢があった。人並みに家庭を持ち、社会から何も干渉を受けない自分の幸せなテリトリーを作ることだ。

そのために必要だと理解して、18から努力して努力することができた。

 

だが、私に家庭という夢が見つからなかった、ほんの少しずれたパラレルワールドを想像するだけでゾッとする。

 

お願いだよ、全教育関係者の皆さん。

正しい苦しみを、全ての子ども達に。

ためらい傷

法医学の講義で、自殺の特徴として、ためらい傷というものを習った。

自殺をした人にはほとんど付いている傷跡だ。通常1回で踏ん切りがついて死ぬ人などいない。少し刃先を首に当てて、血が出て。次はもっと深く切って、でもまだ死ねなくて。それを繰り返して最後に本当に死ぬほどの傷を付けるのである。

もちろんまだ生きているときに付けた傷なので、炎症物質などが出ており、よく他殺でないことの検証に使われる。

 

講義を聞いていて、その炎症物質の量から見ても、ためらい傷の痛みはどれほど大きかっただろうと思った。聞いているだけでも痛いと思った。

その痛みでハッとなり、ほとんどの人は自殺をやめるのだが

本当に自殺をした人は、その痛みよりも心の痛みの方が辛いと思ったから自殺をしたのだろう。

 

それは、薬の苦さを我慢して歯の痛みを止めるように。麻酔の注射の痛みを我慢して手術を受けるように。

 

あんなに痛かったであろう、あのためらい傷の壮絶な痛みよりも痛い心の痛みを取り除くために、自殺をしたのだろう。

 

そう思うと、死にたい人を生かし続けることは、私達死んで欲しくない側のエゴな気もする。

おそらく、拷問だ。

 

私はまだ幸せなことに、死にたいと思ったことはない。

だからか、精神疾患なんて、ただのホルモン異常かもしれないし、まあ薬飲んでボーッとして、一旦医者の診断書つきで合法ニート生活でもしてみりゃええやん、なんでニート生活よりも死を選ぶん?などと医学生らしからぬ思いを未だに抱いてしまう

 

その程度の人間のエゴで簡単に拷問にかけるのは違うと思った。

 

 

話は逸れるが、なぜ死んではいけないか、の問いに、考えてはいけない、という答えしか私は持ち合わせていない。

なぜなら、恐らくだが、きちんと考えたら死んでもいいというのが答えだと思うからだ。

 

簡単にしかまだ言えないけれど、

例えばブラック企業の人が、会社をやめてはいけないと思っていた人が会社をやめて楽になるのと、死んではいけないと思っていた人が死んで楽になるのは何が違うんだろうか。

 

 

だから、死んでほしくない人には、死にたいとまず考えない環境を維持してもらって

どうしてものときは、生きてるだけで拷問されてる状況の中でも、私のために死なないでとお願いする

 

くらいしか、本人以外にはできないんだろうなぁ、と。

国語について

国語が試験教科として存在し、点数で差別化できるということはつまり、現代文で100点を取れるごく一部の人を除き、ほとんどの人が文章を読んで正確に読みとることができないことが前提にあるということだ。

これはなかなか忘れてしまいそうになりそうだが、そう、ほとんどの人は文章の意味を理解できないのだ。これは事実だ。

 

センター国語で使われる文章はプロが選んだプロの文章である。論理的にきちんと根拠をもった問題作りがされているとも思う。そして、読み解く側も人生をかけて全精力をもって読んでいるのだ。それでも間違える。

 

なのに、この世の中は文章を読めば万人が理解できることが前提に回りすぎてないか?

契約書もあらゆる資料もすべて、読み手を過信しすぎている。99%の人が書き手の意図を理解できていないはずなのだ。

いや、この場合書き手もアマチュアであるだろうから、もっと確率は下がるだろう。とにかく、皆が皆で間違ってるはずなのだ。

 

私には、何故この世の中が普通に回っているのか、分からなかった

 

けど大学入って4年間ふわふわと何も考えず過ごしたことで、分かってきたことがある。

思っていたよりも皆テキトーに生きていてるということだ。

お互いに食い違いまくっていて、でもその間違えに意識をしてないから、上手くいっているように見えているだけなんだろう

 

だから、上手く生きるコツはただ1つ

意識されないこと、なんだと思う

 

正しくなくていい、素晴らしくもなくていい

 

ただ、相手の疑問が湧かないように、私のことを考えないように、意識されないように、スムーズに、生きる。

それだけで、それっぽく生きることができる。楽に、生きることができるのだ。

 

 

あれほど無茶苦茶な読解しかできない人間だらけで、それで回せる程度の世の中だ。

簡単に、できるはずなんだ。

 

なんでできないんだろうなぁ