フレア

ざれごと

映画 エゴイストの感想

映画って誰かと観ることが多くて、語る相手がいるんだけど

今日は1人で家でみた。

 

家だと何かと気が散るんだけど、今日はたまたまノンストップで集中してみれて、その分ずーんときて

 

だけど今日は一緒にみた相手がいなくて、語る相手がいないので吐き出す。

 

早くAIが有料のものもみれるように、話し相手になってくれる時代になるといいのにな

いや、人だからいいのかな。

 

とりあえず。映画っていいね。

 

 

映画 エゴイストをみた


・若いってすごい
自分年取ったなと思った。若いわ、あの子。
すごいね。

速さとか、青さとか、真っ直ぐさとか、ピュアさとか。
眩しい。
あぁ歳をとってしまった。そして若さに煌びやかを見出せるようになってしまった

 

・はよ生活保護取れ
ずーっとこれ。貧乏とか病気とか、よく大変な登場人物を描くときに出てくる設定だけど、正直ナーロッパだと思ってる。書き手も読み手も了解済みのお約束テンプレート。細かい設定を説明するコストを省略して書きたい論題に速やかに進むための装置。


だって生活保護制度って素晴らしいから。貧乏とか病気で、そんな簡単に生活破綻しないから。

この親子にどんな生活保護を取れない理由があるってんだよ。
日本は身体を売らなくても生活する権利が享受できるようになってるよ。

なので、登場人物がとても大変な生い立ちであることとか大変な生活を強いられてると表現するだけの設定を構成しきれないときに便利だから、生活保護制度がないことにされてよく使われるんだと思う。

それは分かるんだけど、なまじ自分が生活保護とかの人とよく関わるから設定に入り込めないノイズになってる。
私の知識と経験が邪魔で仕方ない。

 

・名前ってすごいね
夫婦とか結婚ってなると、配偶者と財布を一緒にするのも配偶者の家族を大事にするのも違和感がなくなるのにね。

それは世間とか周りの人とか相手とかもだけど、何より自分自身が違和感なく相手に人生捧げられるんだよな。


やっぱり、この世を生きる術としてはいかに上手に型に嵌めるかなんだな。
すでにある型にはめてしまえば、勝手にいいように進んでいく。
嵌められないと、似たようなものなのに急に修羅の道を歩むことになるのね。

 

・脚本が怖い
怖い。怖いよエゴイスト。
そう、私もエゴイスト。
誰しも見覚えがある、打算、保身、そして罪悪感。
あぁ辛い。

 

そこまでするんだよ

医師免許さえあれば、週20時間労働で年収1500万円程度を得ることは十分可能である一方で

私は、現在週70時間近く働きながら年収350万円程度の環境にいる。


なので、この週50時間の追加労働と年収1150万円の差額は、「趣味」に投じてることと同義だと考える。

 

成長している実感が楽しいとか、社会に貢献している感覚が嬉しいとか、そういう自己実現の側面が大きい。

 

 


だから私は、家庭の立場から見れば、

「仕事だから仕方ない」ではなく、

「自分の趣味ややりがいのために、多くの時間とお金を使ってしまってごめんね」という認識でいるべきだと思っている。


ところが世間では、「仕事だから」で多くのことが免責される。さらに「医者だから」となると、なおさら仕方がないものとして扱われることがある。


患者本人には苦痛を与え、家族には苦しい選択を迫り、社会全体としては若者から集めた社会保険料を大量に消費しているだけではないかと感じる場面も多く

当の本人ですら、その意義を見失うことがあるくせに。

そして医者の代わりなんて、いくらでもいるくせに。


そんな仕事が、「仕事だから」という理由だけで特別扱いされることに違和感がある。

 

 

 


嵐のラストライブと親の通夜が重なり、ライブを優先した人が大きく批判されていた。


批判の理由は様々だったが、要約すると

「通夜より趣味を優先するのは常識的におかしい」「通夜の日程変更にはお金がかかる」

というものだったように思う。

 


しかし私は、音楽はある種の宗教だと思っている。

イスラム教徒が一生に一度はメッカを目指すように、嵐のラストライブに人生を賭ける人がいても何も不思議ではない。

 


嵐のラストライブに行けるなら、

仕事を辞める人もいるだろう。

五年間、年収100万円低い職場で我慢する人もいるだろう。(500万円払うのと同義)


つまり、その人にとってはそれほど重大な出来事なのだ。

 


そこで私が不思議に思うのは、なぜ「仕事」で通夜に行けない人は理解されるのに、「ライブ」で通夜に行けない人は理解されないのか、ということである。


仕事だって結局は本人が価値を認め、人生の時間を投入している対象に過ぎない。

 


以前、九州にいる友人から「さっきまで少し自殺願望あって危なかったけれど、今は大丈夫」と連絡が来たら、自分は駆けつけるだろうかという文章を書いたことがある。


数十万かかる飛行機代、宿泊費

仕事の調整、職場への謝罪、信頼残高の消費。


安くはないが

冷静に計算すれば、決して不可能ではない。

 


それでも多くの人は、

「友達だから」という理由で、最初からその選択肢を考えない。


親や配偶者なら仕事を犠牲にする発想があるのに、友達にはそこまでしない。

 

 


今回の話も似ている。


嵐のラストライブに著しく高い価値を感じる人はいる。

 


通夜を遅らせるための追加費用なら何百万円でも払うだろう。


新幹線が止まればタクシーで帰るだろう。


その数時間の不在による負担を後から何倍も働いて返すだろう。


職場に頭を下げ続けることだってするだろう。

 


そういう人は確実に存在する。

 


それなのに、


「仕事」程度で許されるのに、


「医者」程度で許されるのに、


「ライブ」になると急に許されなくなる。

 


私はそこがどうしても理解できない。

 


私には、「そこまでするのか?」という問いに対して、

「そこまでするんだよ」

で終わる話に思えるのである。

 

 

 

 

なお、私は常にライブを優先すべきだと言いたいわけではない。

 


例えば、これが親の死に目に会うかどうかという話であれば、判断は全く別になる。


死に目は代替できない。

どれだけお金を積んでも、どれだけ仕事を調整しても、その瞬間は二度と戻ってこない。


だからこそ、そこでは本当に難しい判断を迫られることになるだろう。

 


また、これが配偶者の親の通夜であるなら、私もライブを選ぶかどうかは大いに迷うと思う。


なぜなら、その場には通夜そのもの以上に、「大切な配偶者が親を亡くし、辛い思いをしているときに側にいる」


という重要な意味があるからだ。

 


後日いくら埋め合わせをしても、その瞬間に隣にいたことにはならない。

そこには代替の効かない価値がある。

 

 


その場でしか果たせない役割が何なのか。

何が代替できて、何が代替できないのか。

そして、その代替にどこまでの人生のリソースをぶち込む覚悟があるか。

 


本来はそういう話なのではないかと思う。

 

 

 

 

最後、
結局私は何をこれで何を言いたいのか


親が死んで悲しいという感情はコントロール不可能なものだけど

嵐のラストライブに行きたい人を批判したくなる気持ちはコントロール可能だろうよ。


必要リソースの負担は、その価値を感じている人間本人が払うべきだが
それを払う覚悟のある人間に対して非難をして、そこにどんな正義があるのか
私にはわからない。

ひなたぼっこ

私が生きている理由は
ひなたぼっこしながらお昼寝をする、あの空間を守るため
であった

 

私の実家は崖の上に建っていた。

景色は綺麗で、光もよく入り、そして人の目も遠く気にならなかった。

窓から入る光の中で、何度も眠りに落ちる。
何にも急かされず、ゆっくりと時間が過ぎていく。
私はあの時間が好きだった。

 

 

中高自体の私は、自分の力であの空間を守り抜くために

誰にも生活を握られず、誰からも文句を言われず、安心してあの時間を持ち続けるために、
経済的にも社会的にも自立しようと決めた。

そのために学校も行ったし医者にもなった。

 

10年経った。私は気づけば結婚し、都内のタワマンに住んでいた。

夫の職場の制約と私の希望を満たす中では1番安かったのがその部屋だっただけなのだが。

 

ある日、お互い疲れ果てて20時に寝てしまい

ふと朝5時に2人とも目が覚めた

カーテンの隙間から光が漏れていて、カーテンを開けると美しい朝日が出ていた

同じ高さのビルはなく、誰からの視線も届かない。

窓を開けたら風も気持ちよかった。

 

ベッドに横になったまま

暖かい光

まだゆっくりできる時間

楽しそうに笑う夫

 

私はまた、この空間を手にした

 

 

言葉は愛である

私は、何をしてくれたかより、何を思ってくれたか、そしてそれを伝えてくれたかを重視する。


意図のない行動により助けられることもあるが、感謝はするものの恩を感じにくい。
それは意図のある行動でも同様で、言葉で伝えられなければ恩としては受け取りにくい。

 

なぜそう思ってしまうのか。

 

以下、言葉と行動の一般的な優劣の話ではなく、あくまで私がなぜそう思ってしまうのかを述べる

 

 

・まず、言葉の使い方はその人の思想を映す。

 

希死念慮がある人と接して理解がある、または自信がそのような経験がある人は

「生きていてほしい」と表現するに留まることが多いという体感がある。

外の人間が言えるのは、そのくらいまでだと分かっているからだ。

 

乳児の親なのに、配偶者に「手伝うよ」と言うと非難される問題も同様だろう。

主体は相手で自分は補助である、つまり責任の所在の認識がズレていることを露呈した表現となる。

 

手話の話題の際に「健常者」でなく「聴者」という言葉を使うとき、そこでは聴覚障害は単なる特徴でしかなく、そこに優劣はないという考えが現れている。

 

言葉狩りと言われるかもしれないが、ただの言葉の使い方の中に、その人の積み重ねてきた認識が確実に現れる

 

 

 

・また、言語での切り取り方はその人の世界の見え方を映す

 

今まで気にも留めていなかった景色も、それを愛した短歌や文章を知ることで、自分の中でも見えるようになり、好きになることがある。

 

連続する世界の中で、それぞれが固有の見方で見たものを、私たちは言語により任意の意図を持って切り取り表現している。

 

 

・そして、言葉は相手に伝える意思を持って発するものである。

 

表情や口調はコントロールしきれないことが多い。
行動もまた、相手を意識せずに行われたものが、結果として他者に影響を与えることがある。


それに対して言葉は、相手に伝える意思をもって発せられる。
誰に、何を、どのように伝えるかを選択したうえで差し出される。


だから言葉は、愛を表出する手段としても、評価する手段としても、適していると私は感じているのだろう。

 

 


ではなぜ、「言葉より行動だ」と言われるのか。


おそらく、ここで言われている「言葉」と、私がここで言っている「言葉」は別物である。

 


1 人を騙す時に言葉を使うことがあるから


確かに、言葉は人を操作するために使われることがある。

ただし、人を操作する過程では、相手を観察し、相手が何を求めているかを理解し、それに応じて関わり続ける必要がある。

この「相手に向き合い続ける働き」には、少なくとも一部において愛の要素が含まれている。


例えばホストが客にかける言葉も同様である。

客を見て、客が認めてほしい美点を拾い、それを言語化し、相手と向き合い続ける。それにより、その相手は日々を生きられる。


私は木嶋佳苗は被害者男性たちを本気で愛していた部分もあったと思っている。


愛は利用しちゃいけないという議論はまた別で論ずるべきである。

 

 

2 単に約束を破ってる例にも使われるから

頑張ります、と言っているのに頑張らない。
約束をしたのに守らない。

こうした場面では確かに「言葉より行動だろ」が成立する。

だがこれは単に約束は守ろうねという話であり、言葉より行動だろと大きく広がるのは違うかな

 

(このニュアンスで使われる用途が多いと思う。
要するに、言い訳よりも約束を破ったという事実を重視しろ、ということなのだと思う。
ただそれは、約束違反をどこまで重く見るか、自分の中で線を引けばいいだけの話であって、そこから言葉全体の価値を下げる必要はないと思う。)

 

3 表面上の言葉にも使われるから

「好き」「愛している」と言いながら関係を維持しない。
「今後のご多幸を祈念する」と言いながら採用しない。

このような場合に「言葉より行動だろ」と言われるのは自然だと思う。

ただしここで使われている言葉は、その人の思考や意図を伴ったものではなく、その場に適しているから置かれた記号的な表現に過ぎない。

「うぇーい」やLINEの「お疲れ様です。」と同様に、意味内容ではなく場の維持のために使われている。

自分の要件を書き出してはAIに文を整えさせ、そして受け手もAIに投げて要件を抜き出すというAI翻訳が流行しているが、件の言葉は、まさにここで装飾される言葉に類する。

それは言葉の形をしているが、私にとっては言葉ではない。

 

 

 

 

言葉も愛であるし、言葉こそ愛である。

感謝の手紙

我ながら名文が書けたので

自分が立ち戻る場として、以下残しておく

 

 

 

ご列席の皆さま、本日はご多用のところ私たちの披露宴にご列席いただきありがとうございます。
この場をお借りして、わたしを育ててくれた両親に気持ちを伝えるお時間をいただくことをどうかお許しください。

 

お父さん

幼い頃からとてもクソ生意気な娘でしたが、どんな屁理屈もどんな突飛な主張でも、真正面から向き合い続けてくれてありがとう。

子どもと侮らず、1人の人間として常に全力で立ち向かってくれました。

誤魔化すことをしない、曖昧さを残さない、あの時間も労力もかけた全身全霊全方位からの反論の数々は、

私が自分の決断・自分の人生に納得し、自分で責任もって進んでいく覚悟を引き受けさせてくれました。

 

 

お母さん

365日お母さんをしてくれてありがとう。

どんなときにもフラットにお母さんをしてくれることで、私たち全員が助かっていました。

 

先日中高の同窓会にいったとき、お話したすべての先生方からお母さん元気?お母さんによろしくねと言われました。

いかにお母さんに守れていたのかを知りました。

 

私の思い、私の能力、私の努力が正当に評価されるように

ずっとずっと、あらゆる理不尽から守ってくれていたのだと思います。

 

よくお母さんは、ふと私がどこかで泣いてるんじゃないかと心配になることがあると言っていましたね。

たくさん心配させてごめんなさい。これからは自分たちの力で家庭を守っていきます。

 

 

たくさんお世話になっておいてあれですが

私は物心がついてからずっと

お父さんもお母さんも、私が生まれて私を育てられて今も私という娘と関係性を続けられて幸せなんだろうなぁ

も思って生きてきました。

 

無性の愛とは、このようなことを言うのだと思います。

私は、とても幸せな子供でした。

 

 

 

私は今日からと彼と生きていくことを決めました。

 

人が困ってる時、私がグズグズ考える横で、なんの損得勘定もなくノータイムで優しくできる人です。

どんなに意見が対立しようと、諦めずに対話を続けられる人です。

 

彼を守り、彼と支え合い、生きていきます。

 

 

◯◯さんのお父さん、お母さん、私を家族として温かく迎え入れてくださってありがとうございます。まだまだ未熟で迷惑をかけることがあるかと思いますが、今後もよろしくお願いいたします。


そしてご列席の皆さま、本日はふたりの門出を見守っていただき、ありがとうございます。

これからも、たくさんお世話になります。末っ子同士の私たちふたりを見守っていただけましたら幸いです。

今後とも、よろしくお願いいたします。

 

 

モンスター

私は、今まで人生で2人モンスターを見たことがある。


高校の寮と研修医時代。

どちらも公私共にずっと一緒にい続ける必要のある輪で、人数が少なくて狭くて

そんな中に1人ずつ、モンスターがいた。

 


不必要に政治力のある人であった。


自分の嫌いな人が皆からも嫌われるように仕向け、自分のやりたくないことはやらなくていいように仕向け、

自分にとって都合のいい世界を作るために、何の気なしで嘘をつき、騙し、動かす人たちである。


だけど、その場では一緒にいて楽しい場を提供できる。

 


私はひたすらに彼らからは逃げ続け、そして彼らに飲み込まれた人諸共逃げ、個別に連絡を取るに留めているのだが、

彼らを思い出す機会があったので、歳をとった今気づきを残しておく。

 


1

自分にとって都合のいい世界になったらいいのに、と思う気持ち自体は普通なので、

それを実行できてしまう才を持つ、悲しきモンスターではないか。


彼らはもしかしたら自覚はなかったのかもしれない。

嫌いという感情、やりたくないという感情を持たないというのは難しいことだ。

なのに彼らの場合、その感情を持ってしまったときに、結果として周囲が動いてしまっていた可能性はある。

 

また、あの公私ともに切り離せず、常に同じ集団の中で関係が固定される環境も、彼らのそうした能力を増幅し、表に出やすくしていたのかもしれない。


自分の才をコントロールできない、未熟な若者たちだった可能性はある。

 


2

モンスターのことを好きな人を見ると、あんな人のことを好きになれる人なのだと、その人諸共嫌いになる自分の潔癖さに気づいた。


私は彼ら個人だけでなく、その周囲の関係ごと距離を取る傾向があった。

当時はそれを戦略だと思っていたが、一般的にはそこまで切る人は少なく、自分はやや潔癖寄りの選択をしていたのだと思う。

 


3

人の魅力とは、目の前の人を楽しませられることを含め、いかに相手にメリットを提供できるかが重要であるということ。


人は他人にはそこまで強い関心を持っているわけではなく、

その場での心地よさや楽しさといったメリットに強く引き寄せられる。


私は人間関係はなんとなく会いたかったら会うという感覚で築いてきており、

相手を楽しませようと意識したことはあまりなかった。


そういう意味では、モンスター達の方が、その場において人に影響を与える力は強かったのだということを、自覚せねばならない。

 

 

 

ただ、ここまで時間が経って自分も歳をとり、譲歩し客観視してもなお、

彼らのおぞましさへの恐怖や軽蔑の気持ちは1ミリも変わらない。

 

自分がターゲットにならずに済んだことを安堵すると同時に、ほんの少し横のパラレルワールドを想像すると、今でもゾッとする。

 

結婚を決めて

結婚を決めてから1ヶ月の所感を残しておく。

 


1 まず、とても幸せである。

今は彼のいいところしか見えない。今までは彼の欠点と認識していたものも、それは私がカバーし2人の課題として扱えばいいものと思えている。

欠点は家庭の問題、いいところは彼のいいところ。

本当に素敵な人だなぁとニヤニヤできる。

 


2  人生の展望が明るい。

2人で生きていくんだ。どんなときも彼が横にいるんだ。そう思えば無敵になったような、何でもできるような気持ちになっている。

 

 

3 考えなければならないことが急に変わって、やっと人生が始まった感がある

これまでは生き方がどうなるか全く分からなかったため、180度どの生き方になっても大丈夫なようにリスクヘッジに大量の思考リソースが取られていた

そこから5度くらいに大きく選択肢が狭まり、次は数十年後を見据えてどう生きていくか考えることができている

 

 

4 彼との関係が変わって楽になった

ここまでは、交渉フェーズが長く続いていた。

別れるという選択肢が常に横にあり、論理的・概念的・一般常識的に正しさを求めたり、私の負担と彼の負担を等分にすべく(私の負担が重いことを認識してもらうために)説いたりしていた。


だけど、結婚するとなったら方向性が変わる。

2人にとっての最適解を探す。

2人は向き合う相手ではなく、2人で課題と向き合うフェーズに入ることができる。


彼と別れる選択肢は机の上になく、どうやって彼と関係を続けていくかを前提に考えるので、発想がまるで違う。すごく楽になった。

 

大昔、人を大事にする権利がほしいという文章を書いた

ずっとこの人を大事にしていいのだろうか?と吟味せざるを得ない時期が続いていたが、やっと思い切り大事にしていいタイミングになった。

 

 

5  私って本当に言葉に生きる人間なんだなーと笑える

 

結婚の決め手は間違いなく、祖父の七回忌に寄せた文章を書いたことである。そこから彼は祖父なんだと気づいた

 

「彼の純朴さは敵視すべきものでなく、敬愛する祖父のように己の甲斐性により目の前の人を助け続けた先に尊敬を集める生き方は存在するし、私はそれを家族として受容できる人間である」と腑に落ちた

そして「私は彼と生きる人生を選ぶ」と決意する文を書いた

 

 

文章を書いて以降、すんなり結婚を決めたし、実際彼への態度も変わった

 

私は文章で人を認識し、状況を受容し、人生を決定する人間であるし

文章で自分自身に決意表明することで、認識を感情の水準まで下ろせる人間でもある

 

笑えるし、自己認識として覚えておこうと思う