フレア

ざれごと

仕方ない

仕方ない、は人を思考停止させる魔法の言葉である

仕方なくないからツラいのだ。

 

たとえば、だ。

昔は一夫多妻制が主流だったが、現在は少しの不倫でさえ社会的に許されない風潮があるが

私は、2人で会ってるときに「仕事だから」で立ち去されるのも嫌だ。だけど、嫌だと言ってヒステリックを起こし、相手を責め立てることはできない。なぜなら仕方ないからだ。

 

昔の女の人達も、こんな気持ちだったのではないかと思う。たしかに一夫多妻は嫌だった。けれど仕方ないものは仕方ない。

というか、嫌だとも思わなかった人がほとんどだったのではなかろうか。一夫多妻制の是非など、まず考えたこともなかったなのではなかろろうか。そして苦しまずにその状況を受け入れていたのではなかろうか。

 

 

身分制もそうだ。昔ははっきりと身分制が存在した。江戸時代の士農工商が代表だろうか。農民は武士にコキ使われ散々理不尽な目にあっただろうが、ほとんどの人が怒ることはなかっただろう。なぜなら仕方ないからだ。

武士に理不尽に身内を殺されてもなお、天災に近い感覚で受け入れたのではと思う。

 

今は違う。

親のコネで入社した奴がいたらムカつく。

親が偉くないと言っても、立場が上の人達に理不尽に殺されでもしたら、一生かけて恨み潰すと思う。

 

 

誰もヒステリーなんて起こしたくない。怒りも恨みもエネルギーがいる不快な感情だ。

 

仕方ないと諦めたら、不快な感情は湧き出ることはない。

仕方なくないんだと、思うから苦しい。

 

周りに流されることなく、便利な価値観を自分で選び取って

もし、仕方ないと、自分自身に思わせることができたなら、これ以上ない幸福な一生を送れるのではないかと思うんだ。

 

 

でも、仕方なくなんてないと気付いて、戦って手にした世界に生きたいと思ってしまうのはどうしてだろうね。

仕方ないと思う能力が高い人と、仕方なくなんてないと気付いて戦える人は、本当はどちらが幸せなんだろうね。

教養について

ドイツは正義でもってユダヤ人を捕まえた

と世界史の先生が言っていたことを最近思い出す。

 

あの頃のドイツ人がユダヤ人を迫害したのは、ただ法律に従っただけだった。

 

私たちは今目の前に指名手配中の殺人鬼がいたら警察に通報するだろう

その人は裁判にかけられたら死刑になるかもしれないと思っても、というか死刑に値する人ならなおさら、通報する人がほとんどであろう。

だって放っておいたら危ないから。自分のため、子どものため、社会のためによくないから。

 

 

そう、その感覚だ。

自分は正義だ。社会の平和と安全のために、正義を遂行している。

その感覚で民衆はユダヤ人を警察に送った。

 

そしてガス室に送り込んだ役人たちは、私情を挟まず、きちんと法律に則り、丁寧にすべて文書に残して、真面目に粛々と人を殺した。

 

 

 

私は死刑廃止論者ではないし、死刑はあってしかるべきと思うし

なんなら、即死刑に値する人間でも時間とお金をかけて裁判を行い、法でもって死刑にする日本のことを、私はどこの国よりも好感が持てる。

 

 

ただ、死刑のどこが正義だと言う人の意見も理解はできる

「人は人を殺してはならない」に背くからだ

 

 

正義って、なんだっけ。

私たちはどうすればいいんだろう

 

 

どの正義が好きか、どの正義を信じるか 

私たちにできるのは、それを選ぶことだけ

 

そして、それを選ぶためには、私たちは歴史を学ばなければならない。

 

 

 

その歴史を学んできたかどうかが、私は教養だと思う。

私が青雲の同級生に一定の信頼がおけるのは、同じ教養をもった人間だと思えるからだ。

 

最近大学の人と話してて、どんなにそれまで相手を尊敬していても、ふと政治の話で聞くに堪えない論調を聞くと冷めてしまうことが多くて自分に困っている

 

勝てば官軍なんだよ、分かってないな。

って、

冷めてしまうんだ

 

人を大事にする権利

親権とは、一緒にいて、子どものことを大事に思ってもいい権利だ。

 

一緒にごはんを食べて、寝て、いくらでも笑い合っていい権利だ。

病気になったら心配していい、転んだら手を差し伸べていい、泣いていたら寄り添ってい権利だ。

頑張っていたら応援していい、いいことがあったら喜んでいい権利だ。

 

その権利のために、親たちは血みどろの離婚裁判をする

それほどの、得がたい権利なのだ

 

 

恋人や夫婦って、他人ながらこの権利を手にすることだと、思う

相手のことを大事にする権利、それを手にするために人は一生懸命恋をする

 

 

友達とは、仲間とは、基本的には一線を引かなければならない。

必要以上に心配してはいけない。喜んでもいけない。それが相手の迷惑になる可能性もあるし、世間体が許さないこともある。

 

家族のような友達に恵まれる場合もあるが

原則、心から相手を大事にしてもいいのは家族だけ

そのように社会は構成されている気がする

(少なくとも法律制度はそれを前提にしていると思う)

 

 

 

そう思うと、恋人がいる人といない人の間にはとても大きい溝がある気がしてくる。

誰かを大事に思い思われる、そんな関係を簡単に築き上げることは、私にはできない。

でもそれを難なくこなせる人が世の中には溢れていて

私は欠陥品のように思える

 

 

好きかどうかはさておき

大事に思ってもいい人、私に大事に思う権利がある人が目の前に現れたらいいのになって最近思ったりしている

一生懸命大切にしたいなって

 

お見合いとかしかないのかなぁ

楽しんでみる、のわけ

楽しいからやる、好きでやる、という逃げを身につけた


おそらくこの行動をした方がいいのだろうと理性で判断したならば、何か理由をつけてそれを自分が好きでやりたかったのだと感情を説得して行動に移すのだ。

 

もし林檎が健康によく食べた方がいいと判断したら、私は林檎のことを好きだと思い込み、感情を説得し、好きだから食べるのだ、と思うようにする。

すると林檎がもし健康によくなかったとしても、テレビを責めることはない。林檎が好きなんだから仕方なかった、と思える。林檎を食べてそれなりに幸せだったじゃないか、と。

 

 

仕事でもそうだ。

自分は真面目にやってるのに、なぜあの人は真面目にしないんだ?などと憤ることがなくなった

放棄する選択肢もある中で、私が好きで真面目にやったのだ、と思っていたら全然相手に対して寛大になれる。

いい経験になった、仕事じゃなきゃ面倒くさがって一生しなかったかも、それなりにスキルも上がった、よかった。とこんな具合である。

 

私はこの手法を身につけて以降、怒ることなんてなさそうと評されることが多くなった。

 

違うのだ。私は私が怒ったときが怖い。私自身手がつけれない。自身のエネルギーも、人からの信用も、色々なものを犠牲にして消耗させながら怒り狂う。

 

 

怒りやすいからこそ、怒る状況を予め回避し、リスクマネジメントをしているだけなのだ。

 

 

食べ放題でカレーを食べたいという話

「食べ放題ではカレーを食べてはならない」

というのが、食べ放題における通説だ

なぜならカレーは原価が低いのにお腹に溜まってしまい、他の普段食べられない高級なものを食べられなくなってしまうからだ

 

 

しかし本来食べ放題というのは、値段を気にせずに食べたいものを食べたいだけ食べられることに意義があるのであり、どうすれば自分が幸せになれるかを考えれば、私はカレーを食べるのが正解なのだ。

だって私はカレーが好きで、カレーを食べれば幸せになれるのだから。

 

しかし私はそれができない。頭では分かっているが、できない。

 

どうしても蟹があれば蟹を食べてしまうし

ちょうどいいラインよりオーバーして、お腹が痛くなるところまで食べてしまう

 

そんなことをしたら、私もお店も誰の得にもならないのに

 

 

本当に食べたいものを食べたいだけ食べられるような

カレーを腹八分で食べられるような

そんな大人に私はなりたい

 

 

霊について

考え方というのは誰かの一言で一瞬にして変わることがあり、とても面白いのだが

私は古文の先生の一言で大きく世界の見方が変わったことがある。

 

 

古典では、霊が実在するように書かれていることがよくある。

当たり前のように存在していて、その前提でもって色々と悩んだり対処したりしている。

 

幼い私は

「ふっ、昔の人ってばかだなぁ。そんな存在しないものに振り回されるなんて」

などと考えていたのだが

 

 

一度だけ、古文の先生がこう言ったのだ

 

 

「あまりに書かれ方に確信がありすぎない?

ほんとうに霊は、実在したのかもね。」

 

 

衝撃を受けた。

そう思うと全て辻褄が合うのだ。

 

 

 

だいぶ話が逸れるが

今日、我々が生きる世界に存在するもので、昔の人が理解できないものは多々あるだろう。

 

wifiが飛んでる。cloudに上げる。放射線で癌を殺す。

 

全ての表現は意味不明で、全て夢物語で、魔法のようで、ファンタジーの世界だと思われるだろう。

きっと未来の人が今の書物を読んだら、

「くそ21世紀のやつら、公式書類にまでファンタジー持ち込むんじゃねえよ、ばーか」

などと罵っているだろう

 

 

 

同じことが起こっている可能性がある

今のWi-Fiのように、昔霊が実在したのかもしれない。

その辺を飛び回っていたのかもしれない。

 

 

 

古典を、本当に事実が書かれていたとして読んでいたら、全く違う面白さがあった気がして

今は少し後悔している

競争について

私が医師になろうと思ったのにはいくつか理由があるが、そのうちの一つは医師にさえなってしまえばもう競争社会から抜け出せるからではないかと思ったからであった。

 

小中高とスポーツ学業ともに割とバリバリしてきた方だと自分では思っているのだが、それらはどちらとも数字として優劣が付けられるものであった。

仲間は常に、友達でもありライバルでもあった。

甘えることができるのは一握り。

どちらかというと高め合う関係といった方が正しい、そんな関係であった

 

医師は、医師国家試験というほとんどの医学科学生にとり難関とされる試験を突破しなければなれない職業であり、全員に一定の医学知識があることの証明がなされている。それはつまり医師になってしまえば横並びで全員同等で優劣がないのではないということを意味すると思ったのである。仲間はただどこまでも仲間であり、心穏やかに働けると思ったのである。

稼いでいてもいなくても、地位があってもなくても、都会でも田舎でも、それは優劣ではなく職務内容が違うだけで、全員が誇りを持ち、かつ互いに尊敬し合って働いているような、そんな職業だと、思っていたのだ。

(本来は医師に限らず、全人類そのようにどんな生き方をしている人に対してもそのような考えであるべきだが、いまは目を潰させていただく)

 

実際医学部に入ってみて、まあもちろん多少の競争はあるものの、小中高時代に比べると表立った競争はなくなったように感じる。

とても居心地がいい。

心穏やかに、ぬくぬくとした日々を過ごしている。

 

しかしここで問題が起きた。私は一切努力をしなくなったのだ。

 

勉強でも部活でも、成長することができなくなった。底辺を彷徨っている。

 

なぜこんなにも伸びないのか、一番の要因と考えられたのはやる気の欠如だった。

 

そう、私は競争がなければ努力できないクズ人間だったのだ。

 

競争至上主義でマウント合戦をするなど、私が最も嫌う人種なのだが

私こそ、まさにそんな人間だったのだ。

 

 

心穏やかに生きることと、成長することは

私の中では共存し得ないのだと確信した。

 

どちらか一方しか、私は追求することができない

 

悲しい哉。