フレア

ざれごと

科学教

私は科学を信じてる。

しかしそれは、私が科学に基づいた教育を受けてきたからだと思う。

 

数学の様々な証明を、私はきちんと理解していない。

とりあえず問題を解いて慣れただけのものばかりだ。

物理も化学も、もちろん簡単な実験はしたものの、定理そのものの証明など全く私は分からない。

 

専門である医学でさえそうだ。

機序といわれているものを教わり、暗記の一助としているだけである。

 

どこかの誰かがちゃんとした手順で証明した正しいものだし

それを正しいとすることで矛盾は生じてないし社会は回ってるし

 

というだけで、私は全く理解などしていない。

皆が信じている人や物を信じているだけだ。

 

 

そう思うと、いまの私は天動説を唱える教会を信じていた民衆と同じである。

 

当時の民衆はガリレオの言葉に見向きもせず弾劾したが

もし今、科学を愚弄する言説が唱えられたら、どうするだろう

 

きっと、私はその人を、変人と笑い、蔑むかもしれない

もしその「間違った」言説により私の生活を脅かそうとするなら弾劾するかもしれない

 

だって私は、科学教の信者だから。

 

 

 

 

「事実なんて存在しない。あるのは解釈だけ 」

とはよく言ったものだと思う

 

きっと、キリスト教を信じるよう教育された人にとっての正解と

科学を信じるよう教育された私にとっての正解は、違う

そこに優劣はないのかもしれない

 

新興宗教を信じる人も、毒親に育てられた人も、モラハラ夫に洗脳された人も

誰かが提示した正解を信じている点で、私と何も変わらない

 

 

なんならどの正解が人を幸せするかで優劣をつけるならば

科学はかなり劣っているとも思う

 

 

私は盲目的に科学を信じているから、いつか簡単に違う宗教を盲目的に信じてしまい、誰かを傷つけるかもしれないと思うと

たまに自分が怖くなる

 

 

天気予報はなぜ進歩しないか

天気予報はなぜこうも進歩しないのか

と考えることがある。

 

雨は外れまくる。一時間後でさえ外れる。なぜ?

天気予報は古来からずっと研究されており、今でも需要は凄まじくある分野だから、もっと進歩しててもいいだろう。

なんなら天気って科学でしょ?めちゃ予報できそうなものじゃない?

 

そこで、もっと進歩したらどうなるかを想像したとき、ふと医学について考えてみた

 

 

医学は、進歩しすぎてしまった

人はみな死ぬ。最期はみな死ぬ。

また、出産はどうしても母体は命の危機に晒される。どうしようもなく失われる命がある。だがそのことを、一般人は忘れてしまった。

進歩しすぎて一般人は万能と思ってしまっているが、当たり前ながら万能とまでは進歩してない

神にはなれない

 

 

もし天気が医学と同じくらい発展したら、こんな未来が待っているのではないだろうか?

 

前提として

雨が降る、地震がくる、などの予想が時間まで99%当てることができ、そしてある程度それをコントロールできる場合を考えよう。

 

天気予報が外れると、それにより損失を被った企業や個人から多大な損害賠償訴訟がくる

コントロールが少しでも顧客のニーズに沿っていなかったら、(自分が何もしなかった場合より良くなっていても)、損害賠償訴訟がくる

もし亡くなる人が出た場合は業務上過失致死傷罪で犯罪者になる

予報は行わないことはできず、誰に対しても教える義務がある

 

そんな法律が作られていることだろう

 

 

そして

 

地震を起こしたのは自分じゃない!

わざと間違えたわけでもない!

みんなを助けるために地震予報をしただけなのに!

というか自分が予報しなくてもどうせ死んでた!

 

そんな叫びを上げながら、善意で仕事をしたのに刑事罰に問われ、全てを失う「犯罪者」が多数出てくる

 

それはオカシイ、安心して仕事できないじゃないか

という悲痛な声は、大きな世論にかき消される

 

 

そんな未来が、容易に想像ついた

 

 

 

天気予報は、いまくらいがきっと1番ちょうどいいね

医学の二の舞になる分野は、あっちゃいけない。命削って仕事するのは私たちだけで十分

みんな幸せに生きてくれ

 

 

 

 

世界史のはなし

暗記が苦手だ。本当に。

医学部にいるのが不思議なくらい苦手だ。

 

なのに世界史を選んだ。絶対に適性は地理なのに。

それでセンター60点台を叩き出した。あぁ忌まわしい記憶

 

話が逸れすぎた。私がなぜ歴史を選んだか。それは歴史上起こったことは、その立場になれば自分もそうしたかもしれないと戒めておく重大な意味があると思ったからだ

だって、歴史って本当に現実に起こったことだから

 

 

正義など、倫理など、価値観など、ただの流行り廃りでしかないし

人はどこまでも残虐になり得るし

今だって、自分だって、残虐そのものなのかもしれない

 

歴史を学んでいるときは、そんなことをいつも考えていた。

 

 

自分がもし古代ギリシャの市民なら、奴隷は奴隷としてコキ使って、べつに使役することも、殺すことだって何も疑問に思わずしたかもしれない

自分がもしナチス統治時代のドイツ人なら、ユダヤ人に石を投げたかもしれない。大量殺戮でさえ是としたかもしれない

 

べつにその人達が特別サイコパスだったわけじゃない。自分だってその立場になったら、何も疑問を抱かずにしたかもしれない。

そう思うと、怖くないか?

 

 

解剖をしているとき、ふと私は残虐なことをしているのではないかと怖くなったことがある。

もっと言おう。残虐なことをしている、これは確かで。それに対して何の抵抗もなく遂行できてる自分が怖くなったというのが正しい表現だろう

 

たまたま私の今生きている社会では、それが合法化され、社会的にも認められている。

だが、もし子孫が見たら、なんと酷いことをできたものだと非難するかもしれない。

 

だからこそ、遡及や他の文化圏への口出しは本当に嫌で

裁くでも批判するでもなく、そう思う人が、そう思う時代が、そう思う文化が、存在するんだなぁと知識にして留めたい

 

価値観なんて、合う合わないでしかない

絶対的な正しさなんて、存在しない

と強く自分に言い聞かせていたい

内と外

自分と彼氏と家族が「内」で、他は全部「外」で

「外」はただ、「内」を守るために必要なものを揃えるためだけに存在してる

 

っていう考えだったの。高校時代は。

 

働いて、お金稼いで、社会的に認められないと、生活できないし家族は壊されちゃうから

それなりに社会と接点は持つけれど

 

それ以上でもそれ以下でもないというか

 

だから、「外」のものは私に何のダメージも与えられない。感情を揺さぶられることなんてない。

何が起きても、あぁ残念、で終わり

 

 

だけど、その彼氏と別れて半年たって、なんだか私の全ての価値観がぶっ壊れてきたというか、破綻してきたというか

「内」がなくなったわけで、「外」の存在意義もなくなって

とりあえず刹那的に、楽しいか楽しくないかだけを基準に生活してきたけれど

今私が存在する意味ってなんだ?ってなっている

 

「外」でしかなかったものを大事にするとか

「外」からまた「内」を見つけるとか

しなきゃなんだけど

 

私が最後にその作業をしたのは中学生だ。もう10年経とうとしている。

10年前起きたくらいの大きな変化を、いま私は起こしきれない。

 

 

元彼が恋しいわけでも、彼氏がほしいわけでもないけれど

元彼がいた頃の生活がとても恋しい

真っ当な反論がくる歓び

反論には、相手の言うことを理解しなければいけない。

というか、

聞こうと思う→聞く→理解する→反論を考える→反論を言う

というプロセスがいる。

その全てをしてくれたならば、それは感謝をするべきだという持論がある。

 

議論の場は権力闘争、交渉、説得でしかないと思うのだが、そうなると反論には反論するのではなく、論点をすり替えまくった上で結局なんとなく向こうが悪くね?という雰囲気にするのが手法として正解なのかもしれない。

 

その上、敵とみなした相手の言いたいことをまず聞こうと思う人が少ないと私は感じている。体感としては30%である。

まあ手法として正解でもない上に、一旦自分の感情の高ぶってる中で、相手の言うことを聞こうと思うのは大変だろう。

 

そして聞こうと思ったところで、実際に口を途中で挟まず誘導尋問などせず聞くことができれ人は更に少なくなる。

そして偏見を捨てて相手の言いたいことを正確に理解できる人など、もう皆無に近い。

 

その上で、反論を用意できるような、優しくかつ優れた人がどれだけいるだろう。

反論を言って議論が噛み合ってしまえば議論は長引くことになると思うが、それを分かった上で反論を口にしてくれる人なんて、もう奇跡だ。

 

もはやここまでくると、愛だと思う。

 

 

 

あと、話は変わるが私はなんとなく向こうが悪いとするのが嫌いだ。遡及、人格否定のオンパレードになりがちだからである。

自分がされているわけではなくても、このようなことをしている人を見ると、あぁこの人と生活はできないだろうなと思ってしまう。

話は聞き流せるので人間関係は続けられるのだが

 

議論の噛み合う人でなければ付き合えないというのが、私が現在男性と付き合えず拗らせてる要因のうちの一つだと思う。

味方の怖さ

立場が同じというだけで、破綻した論を言う人や過激な倫理観を持つ人間を許してしまう風潮が怖くて仕方ない。

 

一般の人は議論をするときに議論はしていなくて、正しさなんて求めていない。議論という場は、権力闘争、交渉、説得のいずれかでしかないということをやっとやっとこの歳で分かるようになった。

(だからこそ根回しとか、花を持たせるとか、面目を保たせるとか、そういう本来議論とは全く関係ないものが大事と言われるのだと思う。)

 

そして、議論が議論でなくなって、相手が何を言ってるかではなく、相手は自分の敵か味方かだけが重要となるために、「味方」が破綻した論を言ってもそれを許すようになるということなのだと思う。

 

皆ちゃんと議論しようよ正しくあろうよ、などと言いたいのではない

自分の立場を通したいときには、どうにか頑張って自分を抑え議論などせず、根回しをして交渉をして、利を守ろうと思う。

 

だけど、そんな大人になって世知辛い世の中で生き抜かなきゃいけなくなったとしても、自分と同じ立場の人間が変なことを言っていたら、どうにかそれを変だと思う頭を残したいなぁと思っております、と言いたいのである。(できるとは言ってない)

書くということ


唐突だが、私は大学に入ってからというもの、ずっと自分の思考が止まっている感覚があった。

1つは、努めて「思考は浅いがそれゆえ害はないオンナノコ」になろうとしたせいであろうと思う。なぜそれを目指したかはいつか書くとして、大学に入ってからというもの、どうにか馬鹿に思われたくて、何を問われても何にぶち当たっても、笑って頼って逃げてきた。期待されないことの自由さに酔いしれていた。1年の頃はそれでよかったのだが、馬鹿のふりして馬鹿になるとはよく言ったもので、そのうち段々と情報収集もせず考えもしなくなり、考えそのものがなくなり、本物の馬鹿となった。自業自得である。

またもう1つは、条件が揃わなければ何も出来ないという私の特殊性のせいであろう。私は中学レベルの数学でも、「座る」「紙に文章で書かれた問題」「紙とペンで書いて解く」という条件が揃わなければ解けない。それくらい条件というのが私にとっては重要なのだが、それが思考に関しても適用されてしまっている。小中高で思考するタイミングと言ったら文章を書くとき、誰かと話すとき、であったと思うが、私はそれを生活に生かすことができない。書くとき話すときしか、思考できないのである。読み書きは小中高で強制的にさせられていたものが大学でなくなったが故に機会がなくなり、話すことは私が拒否してなくなり、3年間思考が止まるという事態に至ったのだろうと思う。

この止まっている感覚というのはとても気持ちが悪い。なるほど空虚感とはこのことか、と実感する日々を送っている。言葉通り、空っぽで、そして虚しい。
このむなしさを解消するべく、ブログを始めることとした。話すには他人が必要だが、書くのは1人でもできるからである。Twitterではできない、まとまった文章を書くことで、少しは自分で考えるということを再びできるようになればいいなと思っている。

最後に、どんな仮面を付けていようが、何を隠していようが、爪は研ぎ続けなければならないと気付かせてくれた友に感謝します。