国語が試験教科として存在し、点数で差別化できるということはつまり、現代文で100点を取れるごく一部の人を除き、ほとんどの人が文章を読んで正確に読みとることができないことが前提にあるということだ。
これはなかなか忘れてしまいそうになりそうだが、そう、ほとんどの人は文章の意味を理解できないのだ。これは事実だ。
センター国語で使われる文章はプロが選んだプロの文章である。論理的にきちんと根拠をもった問題作りがされているとも思う。そして、読み解く側も人生をかけて全精力をもって読んでいるのだ。それでも間違える。
なのに、この世の中は文章を読めば万人が理解できることが前提に回りすぎてないか?
契約書もあらゆる資料もすべて、読み手を過信しすぎている。99%の人が書き手の意図を理解できていないはずなのだ。
いや、この場合書き手もアマチュアであるだろうから、もっと確率は下がるだろう。とにかく、皆が皆で間違ってるはずなのだ。
私には、何故この世の中が普通に回っているのか、分からなかった
けど大学入って4年間ふわふわと何も考えず過ごしたことで、分かってきたことがある。
思っていたよりも皆テキトーに生きていてるということだ。
お互いに食い違いまくっていて、でもその間違えに意識をしてないから、上手くいっているように見えているだけなんだろう
だから、上手く生きるコツはただ1つ
意識されないこと、なんだと思う
正しくなくていい、素晴らしくもなくていい
ただ、相手の疑問が湧かないように、私のことを考えないように、意識されないように、スムーズに、生きる。
それだけで、それっぽく生きることができる。楽に、生きることができるのだ。
あれほど無茶苦茶な読解しかできない人間だらけで、それで回せる程度の世の中だ。
簡単に、できるはずなんだ。
なんでできないんだろうなぁ