フレア

ざれごと

ためらい傷

法医学の講義で、自殺の特徴として、ためらい傷というものを習った。

自殺をした人にはほとんど付いている傷跡だ。通常1回で踏ん切りがついて死ぬ人などいない。少し刃先を首に当てて、血が出て。次はもっと深く切って、でもまだ死ねなくて。それを繰り返して最後に本当に死ぬほどの傷を付けるのである。

もちろんまだ生きているときに付けた傷なので、炎症物質などが出ており、よく他殺でないことの検証に使われる。

 

講義を聞いていて、その炎症物質の量から見ても、ためらい傷の痛みはどれほど大きかっただろうと思った。聞いているだけでも痛いと思った。

その痛みでハッとなり、ほとんどの人は自殺をやめるのだが

本当に自殺をした人は、その痛みよりも心の痛みの方が辛いと思ったから自殺をしたのだろう。

 

それは、薬の苦さを我慢して歯の痛みを止めるように。麻酔の注射の痛みを我慢して手術を受けるように。

 

あんなに痛かったであろう、あのためらい傷の壮絶な痛みよりも痛い心の痛みを取り除くために、自殺をしたのだろう。

 

そう思うと、死にたい人を生かし続けることは、私達死んで欲しくない側のエゴな気もする。

おそらく、拷問だ。

 

私はまだ幸せなことに、死にたいと思ったことはない。

だからか、精神疾患なんて、ただのホルモン異常かもしれないし、まあ薬飲んでボーッとして、一旦医者の診断書つきで合法ニート生活でもしてみりゃええやん、なんでニート生活よりも死を選ぶん?などと医学生らしからぬ思いを未だに抱いてしまう

 

その程度の人間のエゴで簡単に拷問にかけるのは違うと思った。

 

 

話は逸れるが、なぜ死んではいけないか、の問いに、考えてはいけない、という答えしか私は持ち合わせていない。

なぜなら、恐らくだが、きちんと考えたら死んでもいいというのが答えだと思うからだ。

 

簡単にしかまだ言えないけれど、

例えばブラック企業の人が、会社をやめてはいけないと思っていた人が会社をやめて楽になるのと、死んではいけないと思っていた人が死んで楽になるのは何が違うんだろうか。

 

 

だから、死んでほしくない人には、死にたいとまず考えない環境を維持してもらって

どうしてものときは、生きてるだけで拷問されてる状況の中でも、私のために死なないでとお願いする

 

くらいしか、本人以外にはできないんだろうなぁ、と。